シリウス
【Siriusラテン】(「熱い」の意のギリシア語から)

大犬座の首星。
光輝全天随一の青白色恒星。
光度マイナス1.5等。距離八・七光年。
白色矮星と連星を成す。
オリオン座に続いて冬の空を飾る。
古代エジプトにおいて太陽暦の生まれる基準になった恒星として有名。
中国名は天狼星。







 天球に散りばめられた星達は、それら全てが目を焼く強さで輝く真昼のソレと同じ恒星なのだ。

[[[カラクリ天球儀]]]


 夏期休暇。

 毎日毎日暑くて、暇で暇で暇で暇で物凄く退屈でしょーがない。
 家族は大嫌いだ。小うるさい小言なんてウンザリだし。口ばっか達者な親戚どもの機嫌取りもいい加減もう飽きた。

 だから。

 退屈しのぎにちょっくらオマエに会いに行ってやるよ。
 煙突飛行粉なんてダサいから、お気に入りの箒に乗って。だって、バイクは音が五月蝿いし?
 ちゃんと免許取ったら、今度後ろに乗っけてやるって。

 それとも、ホウキじゃなくて、絨毯で飛んで行こうか?
 この前アラビアで買ったヤツ。

 オマエの羨ましがる顔、見てみたいな。あー、今から楽しみ!

 思い立ったら即実行だ。
 クソババァ…母上に見つかるとどやされるからな。さて、あの赤い空飛ぶ絨毯は、一体ドコに仕舞ってあったけ?


 暇で暇で暇過ぎだから、オマエの驚いた顔を笑いに行くのさ。
 
















 
「…せめて、前もってふくろう便をくれるとかさぁ…」

 ぼやきながらも、べったりと懐き倒してくる相手の背中をぽふぽふ叩いて。未だに部屋の中を暴れるペルシア織の絨毯を、ため息を吐いて眺める。
 この分だと、部屋を片付けるのにかなりの労力が必要になりそうだ。

 赤い毛氈の空飛ぶ絨毯。

 大きな窓から、シリウスが何事か喚き散らしながら飛び込んできた時には本当に吃驚した。
 馴れない絨毯に四苦八苦して、それでも相棒の顔を見つけた途端、問答無用で飛び降りて来た。
 制御を失った絨毯は、高い天井からぶら下がっているローソクが山ほど刺さった真鍮製のシャンデリアの辺りをビュンビュン飛び回ったまま。


「どうだ! 驚いただろう!」


 知る限り最高の笑顔が降って来て、その勢いのままソファに二人して倒れこんだ。
 それから、ずっと互いの息の音を聞いていたけれど、もうそろそろ流石に辛い。部屋を暴れまわる絨毯も気にはなるが、黒いシャツの隙間からの汗の匂いをもろに吸い込んでしまって、鼻腔の奥の方からだんだん溶けるような感覚に蝕まれつつあった。

 親友の汗のニオイでぐらぐら来るなんて絶望的だ。

「なぁ、ビックリしただろ?」

 ようやく顔を持ち上げ、イタズラっぽくにやにや笑って覗き込んでくるシリウスの顔。

「したした。したから、もう僕の上から退いてよ。重いって」
「…その台詞、女には言わねー方がイイぞ? 秒速でフられちまう」

 なぁ、もっと驚かせて欲しくねぇ?と問えば、

「これ以上はゴメンだな。…でも、やれるものなら、やって御覧よ?」

 とヘイゼルアイズが愉快そうに、やってみろよと言わんばかりに見上げてくる。

 シリウスはほぼ間髪入れずジェームズの唇に自分のそれを押し当てて、ほんの五秒も経たないうちにすぐ離した。

 面白いくらい動揺しまくった首席の悪戯王のカオ。
 これが見たくて、ここまで来たと言っても過言ではない。

「イタズラ完了!」



 弾ける様な笑顔で言い渡し、さて起き上がろうとした身体は、下から伸びた二本の腕によってソファに逆戻り。



「してやられたよ、相棒」
「オマエが油断してたんだろ? 友よ」

 お互いの腕の中で、笑って笑って。口唇を吸いあって、また笑いあった。
 一体何がそんなに可笑しいのか二人共わからなかったが、シリウスはジェームズに会えて嬉しくて笑っていたし、ジェームズはシリウスが笑っているので笑っていた。


 やっと落ち着いた頃には、すでに空はうっすら暗かった。夏特有の、むせ返るような緑の匂いと、涼しげな夕闇の気配。
 すぐ近くの、嫌と言うほど見慣れた、自分の顔より親しみのある相棒の顔。

「…でも、本当に驚いた。今日は泊まっていく? 荷物は?」

 ソファに沈み込んだままの体勢で闇色の髪に指を絡め、ジェームズがボンヤリ訊く。
 てのひらで撫でてみると、結構頭が小さい。だから脳味噌が足りていないと考えるのは早計だとは思うが。もともと頭蓋骨が小さいのだろう。

「ない」

 シリウスは相棒の身体の上に寝そべって思う存分くつろいでいた。寝心地は悪いが居心地は素晴らしい。
 時々相手の頬や腕を抓って遊ぶ。その度に痛いよと怒られるけれど、本気で振り払われるわけじゃない。
 ゆっくり髪を掻きまぜる手が心地良かった。頬を柔らかに跳ね返す心音をもっとよく聞こうと、シリウスは一層ジェームズの胸に顔を押し付けた。

「…ないって…あのなぁ。
 本当に何しに来たのさ? こんなに突然」

「オマエのカオを見に」

「計画性ゼロだね」
「駄目か?」
「別に」

 むっとした様子で灰色の双眸が親友を睨む。

「何だよ、別にって!」

 ジェームズは不機嫌の証に膨らんだ相棒の頬に手を添え、顎の先まで指を滑らせる。
 首を伸ばして軽く唇を啄ばんで、にっこり笑った。

「嬉しいって事さ」
「ホントかよ?」

 まだ疑ってるシリウスの視線を楽しげに受け止め、ご機嫌取りに今度は目尻にも口付け。

「好きだよ」
「バカ言え」
「来てくれて嬉しい」
「はいはい」

 本気で聞いてよと笑うジェームズのクシャクシャの髪を引っ張って。
 そして、ふとある事に気付く。

「…なぁ、絨毯は?」
「そういえば、どこ行ったんだろうね?」

 派手に部屋の中を暴れまわっていた絨毯は、いつの間にやら姿を消していた。
 改めて見てみれば、ひどい有様だ。テーブルや椅子はひっくり返り、机の上の小物は例外なく床にぶちまけられ、シャンデリアは半分傾いていた。
「うっわ〜、結構ヒサン〜」

 盛大に顔を顰める親友を呆れたように見遣り、
「元はと言えば、君の所為だろ」
 容赦の無い一言。大きく開いた窓と、緩やかに風に煽られている深緑のカーテンを指差す。

「きっと窓から出て行ったんだよ」
「げ」

 勿論、持ち出すのに許可なんか取っていない。失くすとかなりマズイ事になる。

 まず外出は例外なく禁止されるだろう。ふくろう便も自由に使えわせては貰えまい。そして、地獄の門番の様なハウスエルフと召使の監視下に置かれるのだ。いや、金で融通がきくだけ地獄の門番の方がまだマシかもしれない。
 その後に待っているのは恐ろしい折檻だ。憎悪に歪む母の顔と、弟の侮蔑と憐憫の眼差しを思い起こしてシリウスは身震いした。

「悪ィ、俺ちょっと探してくるから」

 自分の髪に絡んだままの相棒の指を外して、慌てた様子で窓から出て行こうとするのを、冷静な声が止めた。

「シリウス、ここ三階だよ? どうやって降りるつもり?」
「……」

 ギクリと固まってしまった彼の肩を宥めるように叩きながら、更に言う。
「それに、もう暗いし。明かりも無しじゃあ探すのは無理だと思うなぁ」

「…ううう」
 途方に暮れて灰色の瞳が頼りなげに揺れる。

「…今夜、僕の部屋に泊まって行ってくれるなら、箒と明かりを貸してあげてもいいけど?」
 そう身長は変わらないから、背後から抱き込んで引き寄せれば自然と耳元に口がいく。
 どうする?と少し回りこんで訊けば、問答無用で小突かれた。

「おまえ、超絶趣味悪過ぎ!! ジェームズのひきょーもん!」
「何とでもどうぞ?」

 上機嫌に笑う彼の背後に、長くて黒い先の尖った尻尾が揺れていたかどうかは定かではない。











 結果から言えば、絨毯はすぐに見つかった。

 何のことは無い。ポッター家の家屋のすぐそこの庭の枝に引っかかっていたのだった。ジェームズの飛行能力や、シリウスのケモノ並みの視力を発揮させる間でもなかった。

 二人顔を見合わせて吹き出し、台所にコッソリ忍び込んで食べ物を拝借した。
 別に両親にバレたところでどうにかなるものでもないのだが、何事も人に知られないようにやるから楽しいのだ。


 そして今は、空飛ぶ絨毯に並んで座って、夏の夜風を満喫しているところだった。
 矢張りジェームズも空飛ぶ絨毯には興味があるらしく、ピクニックのようなノリで移り変わる景色をおかずに夕食代わりのつまみ食いだ。

「オマエん家のお母さん、相変わらずイイ腕だよなぁ…」
 冷めないように魔法のかけられたステーキ・キドニー・パイをぐもぐも頬張りながら、シリウスが相棒の手からかぼちゃフィズの瓶を奪う。パチパチと口の中で弾ける炭酸が爽やかだ。

「そう? 伝えておくよ。ブラック家の嫡子に褒められたんだ。さぞかし喜ぶだろうな」
 代わりに食べかけのパイを奪い取って、フライドポテトと一緒に口に放り込むジェームズだ。

「あああッ! 俺のー!!!!」
「うわっ、シリウス、危ないから暴れるな!!」

 彼が立ち上がろうとした所為で、絨毯が大きく揺れる。よろめいた身体を抱きとめて、ほっと息を吐いた。

「…まったく、食い意地張ってるよな、君って。そんなにうちのステーキ・キドニー・パイが気に入ったなら、僕の母さんをコックに引き抜くかい?」


 途端、なぜかシリウスは明らかに不機嫌そうな顔つきになる。


「いらねーよ」
「遠慮する事ないのに」
「ジェームズの家に来て食べるから、いい」

 ジェームズは回したままの腕に、力を込めた。

「……おい」

「なに?」
 声音に含まれる苛立ちを綺麗に無視して、何でもない風に問う。

「離せよ。食えねーじゃん」
「離さない」

 夜の夏の風は、冷たいと言うほどではないけれど、こうしてくっついていると、やっぱり暖かで気持ちが良かった。

 ため息を吐く気配。
 シリウスの形の良い指が、あちこち跳ねた黒髪の隙間に差し込まれる。同じように、すべらかな長い髪の手触りを楽しんだ。

 頭皮に、柔らかなものを押し付けられる。
 ジェームズはそれが唇だと認識して、肩口に埋めていた顔をそっと上げ、頬からゆっくり伝って目的の器官を探り当てた。上唇を舌でなぞって、入り込んでくる相手のそれをやんわり押し返す。

 互いと交すキスには飽きるという事が無い。
 丸で心が通っているかの様に思い通りの反応を示す事もあれば、全く予想外の仕返しを受ける事もある。
 二人揃って好奇心旺盛で研究熱心だったから、今では彼らのキスのバリュエーションは羽根の如きピアニッシモから嵐れ狂うザ・ケープまで、様々に広がっていた。

 今日の口付けは、互いの口中を嘗め回す摘み食いのそれだ。少々行儀悪く舌を伸ばし合い、相手の侵入を妨害する。
 なびく闇色の髪を梳いていた手を背中にきつく回し、もう一方の手で後頭部を撫でながら。

「…かぼちゃフィズの味だな」
「キドニー・パイとポテトの味も」

 色気の無い会話。でもこれくらいが丁度いい。

「おい」
「今度は、何?」

「空」
「あ」

 いつの間にか空を覆い尽くすのは満天の星々。
 どれか一つ掌に落ちてきても不思議ではないと思える様な、いかにも御誂え向きの、笑えるくらい見事な夏の星空だ。
 たまたま湖の上を飛んでいたので、水面に夜空がそのまま映りこんで、まるで星の海で遊泳でもしてかのようだった。

 燦然と煌めく夏の星々の天球の中心で、一緒にいると最高に楽しい相棒と二人きり。
 シリウスは笑いを堪えた。自分への呆れの。


「なぁ、相棒?」
「なんだい? 友よ」


「俺、こーゆー時に思い浮かぶコトバが“wonderful”位しかない、自分のボキャブラリーの貧困さが悲しいぜ」

 我ながら似合わねーと苦笑いだ。

「いいんじゃない? 少なくとも、君の感受性は正常だ。
 何なら此処で一つ星に纏わる詩でも朗読してくれよ」

「誰に聞かせるんだよ、アホ。
 お前しかいないのに」

 シリウスはクスクス笑い、痛くない程度の強さで相棒の頬を抓る。

「そういえば」
「ん?」

「金星や火星とかの惑星を除いて、夜瞬く星は、全部恒星なんだよね」

「首席がナニ今更言ってやがる」

 シリウスは切れ長の目を胡乱げに細め、今度は何を言い出す気だと相手の様子を窺った。

 ジェームズはそんな親友に微笑みかけて、また肩に流れる髪の一房を絡め取る。

「じゃあさ、シリウス。…君の名前も」
「俺の?」
「そうだよ。つまり、恒星を指す名前だよな」


 しばし、無言で見つめ合った。交錯する、真摯なハシバミ色の眼差しと、不思議そうな淡い灰色の瞳。
 どこか、奇妙な空気が漂う。

 数秒間たっぷりと彼らは熱烈に見つめ合った。


「…ジェームズ?
 それで、太陽みたいだとかありきたりな文句で俺を口説こうってンじゃあ、ないだろうな?」
 
 眉間に深く皺を刻んだ顔。ひどいしかめっ面だ。
 ジェームズは笑うしかない。

「そこまで無粋じゃないよ、僕は。それに…」


 ─―今更、口説く必要もないしな。


「この、自信家」
「でも本当の事だろ?」
「馬鹿」

 くっきりと低い声は決して睦言には聞こえなかったが、ジェームズは満足したらしい。

 そもそも口説き口説かれる様な仲ではない。
 極稀にやたらと甘ったるい空気になったりはするが、それは今ではない。シリウスは思う。
 相手の長所を褒め称え自らを魅力的に見せ好意を抱かせる必要性を、彼は見出せないのだ。



 いっそ清清しい程にバッサリ切られたジェームズの方は、シリウスより少々欲深く考えた。


 夏の夜空には、今にも降ってきそうな星達。
 風渡る水面には、空の輝きを幻想的に揺らめかせる穏やかな波。
 すぐ傍には大切な大切な半身の体温。

 これで、君がもう少し素直なら申し分無いのに。やたら自分に正直なくせして、肝心な所は見せてくれない。

 でもあまり贅沢も駄目だよな。
 今でも気分最高なのに、これ以上を求めたら背伸びのし過ぎでコケそうだ。

 

[[[Celestial sphere]]]


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