友を捜し求める者は不幸である。
[[[些か特異な友情論]]]
「じっとしてないと、ちゃんと出来ないじゃないか」
ヘアブラシを片手に、ジェームズが溜息を吐く。これで何度目だろう。
叱られたシリウスの方は一瞥すらくれず、不明瞭な音声を発しながら船を漕いでいる。
その侭がくんと後方へ倒れ掛かる身体を支えて、耳元で大きめの声を出した。
「起・き・ろ!」
「……む〜?」
翻訳すると、『もう少し寝かせておいてくれ』ということらしいが……。
「今日は何の日だか、わかってるのかい? 相棒。試験の一日目だよ?」
返事は返って来ない。凭れかかるものを発見して、再び寝付いてしまったようだ。
この場合の『凭れかかる物』と云うのは無論ジェームズの腕のことで、起こすのは簡単だった。問答無用とばかりに背中を支えていた手を離し、あとは親友の体重とニュートンの法則に任せる。
数秒もしないうちに、背中からまともに布団に突っ込んだぼふっ! という音と、
「はばっ」
という意味不明の声が聞こえてきた。
「目が覚めた?」
眉を顰めて首の後ろを擦っているシリウスを、腕を組んで冷たく見下ろす。組んだ腕の先で、ピカピカの木製の柄のブラシをくるくる弄びながら。
眠そうに瞬いていた淡い灰色の瞳が、胡乱気に見上げてくる。上半身だけ寝転がったまま、彼は悪態をついた。
「乱暴者」
「君が起きないからだよ」
「眠ィんだよ」
「起きなきゃ試験が受けられない」
「優しーく起こしてくれなきゃイヤだな、俺」
「冗談を云う気力はあるみたいだね。
だったらせめて、動かずに座っておいてくれると助かるんだけど」
くるくる回していたブラシをピタリと止めて、相棒の方へ向ける。ちょいちょい、と軽く動かして、仕草だけでさっさと起き上がれと示した。
助け起こすつもりなど無いようである。
横になった姿勢で器用に肩を竦めたシリウスは、落ちてくる髪を押さえながらダラダラ起き上がった。不機嫌全開の顔つきで文句あるか、と目の前のハシバミ色の眼に焦点を合わせる。
ジェームズは柔らかく目を細めた。
「もう今日で何度目かな。今度こそおはよう、シリウス」
近付いて来たヘアブラシの毛先に、むずむず痒かったところを刺激されて気持ちいい。
自然とシリウスの渋面が和らぐ。
「はよ……リーマスとピーターは?」
姿の見えないルームメイトが気になって、きょときょとと部屋を見回した。まさか、もう先に食堂へ行ってしまったのだろうか。
自分はそんなに寝過ごしたのか? あり得そうで怖い。
「…ああ、こら、じっとしてなってば」
ジェームズは作業を中断し、両手で親友の顔を正面に向かせる。
寝台に腰掛けたシリウスの前にジェームズが立って髪を梳いているので、その身体が邪魔になってシリウスには部屋の中の様子がよくわからない。
しかし、彼の疑問は、リーマス本人の声によって解決した。
「…ジェームズ、シリウスも。珍しく早いね、おはよう」
向かいの寝台の方から、リーマスの声がする。眼鏡の相棒が愛想よく、
「やあ、いい朝だね」
などと言っているのを、何処か遠くで聞いたような気がする。
シリウスの声が僅かに低くなった。
「……ちょっと待て、ジェームズ。今何時だ?」
うきうきと大好きな闇色の髪に櫛を通しながら、彼は陽気に応えた。
「朝食が始まるまで、あと一時間は余裕であるかな」
「お前…、何か俺に恨みでもあるのか?」
怒りを通り越して脱力した様子の相棒の髪の、新たな一房を手に取りながら、大袈裟に驚いた風に云う。
「まさか!! 僕がそんな奴に見える?」
シリウスは一生懸命な親友のブラッシングの妨げにならない程度に首を傾げて、相棒を睨み上げた。
「大いに」
「神よ、聞きましたか? 僕の友情は彼には届いていなかったらしい」
白々しく傷付いたふりなどしてみるが、目が笑っている。シリウスは遅ればせながら、嵌められた事に気付いた。
「何? ジェームズったら騙したの?」
含み笑うようなリーマスの声。
「そーなんだよ、酷ェよなー」
朝は出来る限り、一分一秒でもベッドで丸まっておきたいたちの彼としてはかなり本気で腹が立っていたが、それでも半ばニヤニヤしつつ親友に対する不満を訴える。
「嘘は一言も云ってないじゃないか」
「真実の全てを云ってたわけでもないだろ?」
「人はそれを不実と呼ぶんだよね」
楽しげなリーマスの茶々が入る。
漸く頭の中身もはっきりしてきたのか可笑しげに笑いを噛み殺していたシリウスが、自分の肩口を流れる髪にとおされるブラシに、興味深げな視線を遣った。
「コレ、何で出来てんのかな?」
空いた方の手では逆に髪を乱してその手触りを楽しんでいたジェームズは一瞬だけ考えた。
「蛋白質だろう?」
至近距離の相棒の頬を人差し指でアホかと突いて、
「髪の毛じゃなくて、ブラシの毛」
「ああ」
突かれた頬を押さえながら、手に馴染んだヘアブラシに改めて視線を向ける。
「やっぱり、蛋白質だよ。動物の毛で出来てるから」
「ふーん。なんの動物?」
結構動物好きの彼は、少し面白く無さそうに相棒の手からブラシを摘み上げる。
取られた方も、無理に取り返そうとはせず手櫛に切り替えて、もう特に整える必要も無い滑らかな髪の感触を愛でた。
「色々あるみたいだけど、それは豚のかな」
髪にいいんだよ、と続ける声をシリウスは半ば聞き流す。
「……豚ァ!? なんか脂肪ドロドロって感じ。
スネイプみたいな頭になったりしてな」
「彼のアレは、整髪料だと思うんだけど、違うの?」
あまりの例えに、リーマスが苦笑しつつ口を挟む。
「俺が知るか。でも、ナンだよな……。
あの仏頂面が、毎朝鏡に向かって頭にスプレーとかしてるのかと思うと笑えるぜ」
てゆーかむしろ怖ぇよ視覚の暴力だよなと盛り上がる二人を傍目にリーマスは深々とため息をついた。
――君たちの朝の身繕いよりは、マシだと思うんだけれど。
友人達の方を向いていた視線を身体ごと反転させ、制服に着替えるべく寝間着の釦を外していく。
今日はともかく、明日には苦手な魔法薬学の試験があるから、コッソリ誰かに秘訣を聞き出せないかなとあれこれ考えてみたりしつつ。
ジェームズは、リーマスが見ていないのをいい事に指に絡ませた漆黒の髪に、唇を押し当てた。伏せた目を少しずらせば、息のかかる距離で視線が重なった。
灰色の澄んだ瞳が、近すぎる距離に怪訝そうに眇められる。
それを戯れに、焦らすようにはぐらかしながら、眼と、指先と、くちびるで、細くて柔らかい感触を堪能する。髪伝いに額やこめかみに口付けを繰り返し、やがて満足げに頬に頬を寄せて吐息をついた。
耳元を掠めた空気に、シリウスが微かに身体を強張らせる。
彼は持ったままだったヘアブラシの柄でこつんと相棒の側頭部を叩いて、いい加減離れろと意思表示した。
リーマスは耳がいいので、どんな小さな囁きでも聞かれてしまう恐れがある。妙な言動は慎むべきだ。
だが、それは杞憂だった。
着替えを終えたリーマスは振り返りかけて状況を把握し、ありもしない今日提出のレポートを探していたので。
「…で、結局偉大な首席殿は、どうしてこんな早く起こして下さったわけ?」
「試験に備えて、やる気出そうかと思って」
ニコニコ笑って云うジェームズの言葉に、他二名は『何のやる気だよ』と同時に心の中で毒づいたが、懸命にも口には出さなかった。
チラホラ人の集まり始めたグリフィンドール談話室で、最後の追い込みをかける生徒たちに混じって朝食の時間を待ちながら、落書きだらけの教科書を片手に他愛の無い会話を交わす。
ふと、何か気付いたように、リーマスが立ち上がった。
「忘れ物か?」
「トイレか?」
好き勝手にコメントする黒髪二人に、纏めて呆れたような眼差しを送り、
「……違うよ。ピーターは?」
「「あ」」
そう云えば、起こすのを忘れていたと3人は早足で男子寮塔の階段を慌しく駆け上がった。
ヨレヨレのピーターが半泣きで、それでも他のルームメイトに感謝しつつ談話室に姿を見せるのももうすぐだろう。
良い友人というものは得難いものだ。
例えその友情が、永遠ではなかったとしても。
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