いちいち真にうけていたら、疲れてどうしようも無い事もあるものだ。
 それでも言葉一つ考え一つ逃さないでおくのが、願望であり誠意であると。否、これは最早義務だ。

 それが、当時のグリフィンドール監督生の考え方だった。


[[[Darkness?]]]









 優雅に操られる杖の先端から、緑色の不可思議な光の帯が噴出す。

 高くもなく、低くもない独特の声が紡ぐのは聞いた事もないような呪文。

 立ち昇る魔力の余波なのか、肩に流れる艶やかな闇色の髪や、真っ黒なローブがふうわりと揺らめいていた。


 相当、集中しているのだろう。

 杖先に全神経を向かわせる、その睨みつける強さの淡い色合いの双眸は限界まで眇められ、秀でた額には汗すら滲んでいる。


 いつもは騒がしい誰もが固唾を呑んで、それを見つめていた。
 これが、上手くいかなければ、今までの苦労が水泡に帰す。



「…とりあえず、こんな、モン…かな……?」

 大きく肩を上下させながら、漸くシリウスは杖を下ろした。ボロボロの長椅子にくったり沈み込んで、呼吸を整える。
 隣に座っている鳶色の髪の少年が、ポケットからハンカチを取り出した。

「あ?」
「汗」

 拭きなよ、と白い布を押し付けて、探る目つきで適当に顔を拭く彼の様子を、それでも心配そうに観察した。

「やあ、上出来だ、シリウス。…うん、今までかけた魔法も、殆ど崩れてないし」

 丸眼鏡の少年はそう云って、満足げに机から羊皮紙を取り上げた。先程の魔法の余韻で、また緑のキラキラした光の粉が紙面から滑り落ちる。

「…簡単に云ってくれるよなァ!
 お前のかけた呪文、やったらクセあって合わんの苦労したぜーもー。ジェームズのヘソ曲がりぃぃ!!
 ……っと、リーマス、コレさんきゅ。」

 綺麗にたたんであった白いハンカチは、ぐしゃぐしゃになって持ち主の手に返された。
 ついでとばかりに、長身がリーマスの脚の上に投げ出される。

「あー疲れた!」
「そんなに疲れた?」

 仕方ないなと苦笑しながら、自分の膝に乗っかった重みを撫でる。
 気持ち良さそうに頬を擦り付けられても、悪い気はしなかった。ちょっと眉根を寄せて、退いてよと心にも無い事を言ってみたり。

「でも、これでやっと地図が完成するね!」

 にこにこ笑って云うのはピーターだ。
 ほぼ3年もの時を費やしてアニメーガスを研究し、漸く完成させてみんなで冒険したその成果。ホグワーツの通路が、隠し扉や階段は勿論、自分たち以外はあのフィルチやミセス・ノリスだって絶対知りっこないような秘密の抜け道だって全部全部書いてある。

 それだけではない。

 地図上を動く印を見れば、この学校の何処に誰がいるか、一目で判るだろう。あとは、それを使いこなす賢い頭と、ほんの少しの茶目っ気があれば、完全犯罪も夢じゃない。
 シリウスは、その地図を完成に近づける為、また一つ魔法をかけたところだった。

 ここ最近、この薄っぺらい羊皮紙に、自らを“忍び”と称する四人は普段授業に臨む以上の情熱と技量を傾け、ジェームズ始めリーマスもシリウスも、何度も魔法をかけたりかけ直したり、失敗しては一からやり直したりした。
 因みにピーターは、魔法をかける作業にはあまり加わらなかった。彼の仕事は専ら、定規と羽ペンで図面をひく事か、呪文に集中する面々を横でハラハラ見ているかのどちらかだった。

「そうだな、あとはそれぞれ署名を入れるだけだ」

 ジェームズが愛しげに、今は何も映し出していない羊皮紙の表面に触れる。丸いレンズが紙面に触れるギリギリまで顔を近付け、微細に眺めたりもした。
 その相棒が、リーマスの膝に寝そべったままニヤっと見上げる。

「我らマホウイタズラ仕掛け人の名前で?」
「ああ」

 それぞれのニックネームは、すったもんだの末に既に決めてあった。
 各々変身する動物に由来して、ムーニー、ワームテール、パッドフット、プロングズ。


 自分たちにしか作り得ないだろう、最高傑作。まさに自慢の品だ。


「署名入れる前にさぁ、ジェームズぅ」

 今度は、丁度目の前にぶら下がっている親友のローブの紐をオモチャにしながら、机に地図を広げ直している相棒にシリウスが呼びかける。

 リーマスとしては、彼に紐で遊ばせておくと確実に絡まるのでやめて欲しいのだが、疲れてぐんなりしている姿を見れば、そう強いことも言えない。
 仕方無しに、サラサラと手触りの良い髪をごく軽く引っ張るだけで許してやる。

「何だい?」

 だらしないシリウスの格好を見て、ジェームズはちょっと顔を顰めた。
 相棒がわざと制服を着崩したりするのはいつもの事だし、長椅子に行儀悪く寝転がるのもしょっちゅうだが、腰掛けたリーマスの脚の上に丸でそれが単なるクッションだとでも云わんばかりの態度でひっくり返っている今の格好は、あまりにも怠惰に見えた。

 身を投げ出す先が自分の方でない事も、何だか面白くない。本当にほんの少しだけなのだが。
 自然、硬い声が出てしまう。

「俺、ハラ減った。透明マントでも着て、厨房から何か食いモン、パクって来てくれよー」
 ダルそうに云いながら、横柄に顎をしゃくる。

「…君さぁ…さっきも一人で、ナメクジ・ゼリー食べまくってたじゃないか。」
「そうだよ! ボクも食べたかったのに〜! まだ足りないの?」

 リーマスとピーターの非難めいた声に、シリウスは頬を膨らませた。

「…ゼリーなんかじゃ、腹いっぱいになんねーし。ハラ減った」

 彼は気分屋だ。放っておいても直ぐ機嫌は直るだろうが、ここいらで一息つくのも、まあいいかもしれない。
 最近、相棒に甘すぎる自覚がやっと芽生えつつある(それはもう本当に『やっと』)ジェームズは、そう自分を納得させた。

「オーケイ。わかったよ、シリウス。
 ピーター、来い」

 透明マントを広げた眼鏡の少年が、脚の取れかけた椅子に座っていた小柄な少年を手招きする。

「ええっ? ボクも行くの〜?」
「だって、僕一人じゃあ、四人分なんて運べないだろ? ほら早く」
「わわわッ! ま、待ってよーぅ」

 さっさと透明マントに身を包んで行ってしまおうとするその後を、慌ててピーターが追いかける。
 姿は見えなくても、バタバタ音がする。扉が開き、バタン、と閉まって足音と共に、気配が遠ざかっていった。
 嫌になるほど見慣れた光景だ。

 

「…まったく、ジェームズを顎で使えるのは、ホグワーツ広しと云えど、君一人だろうね」

 ため息と共に吐き出された呆れ混じりの言葉に、シリウスが口端をクイと持ち上げる。

「でも、ないぜ?」
「そう?」

「ああ。リリーとが指をパチンと鳴らせば、アイツすっ飛んでくだろーしなァ」

 リーマスは、口元の笑いを噛み殺すのに苦労した。

「確かに。…ねぇ、シリウス」

 案の定絡んでしまったローブの紐を、それでも伸びてくる形の良い指からさり気なく遠ざけながら、机の羊皮紙を手に取ろうとする。シリウスの頭…というか、上半身が膝に乗っているので、若干苦しい体勢ではあった。

「あ?」

 リーマスは何とか手にした羊皮紙を、自分と彼の目の前に翳す。

「さっきので、もう、何処に誰がいるのか、地図に映るようになったの?」

 角度によっては、くすんだ色の直線や曲線が見えない気がしないでもない、何の変哲もないように見える羊皮紙の切れっぱし。

「なってるなってる、筈…。見てぇ?」

 灰色の両目が、なあ、見たいだろ? とでも云う風に見上げてくる。
 
自信なさげに呟かれた一言は聞こえなかったフリで、にこっと笑った。

「うん、見たい見たい」
「ちょっと、待ってな」

 シリウスはしつこくリーマスの膝を占領したまま、ゴソゴソ一度仕舞い込んだ杖をもう一度引っ張り出す。
 もったいぶる事もなく、無造作に翳された紙面を杖先でひと撫ですれば、まるで生き物の様にインクの線がするする伸び、あちこちで分かれたり一つに纏まったり、交差したりを繰り返して、やがて羊皮紙いっぱいに広がって、完璧な城の地図を描き出した。

「やっぱり、何度見ても凄いな」
「ふっふっふ、マジにスゴイのは、これからだぜ? ムーニー」

 リーマスが地図に気をとられている隙を突き、再び、その胸に揺れる紐にシリウスは手を伸ばした。ここまで来たら、解けないくらい滅茶苦茶に絡ませてやるとしよう。



「…脳味噌が何処にあるか見えないのに、ひとりで勝手に考えるものは信用してはいけない」



 滑らかな声が、一瞬何を言ったのか判らなかった。
 ただ、紐を弄んでいた指先が、ぴたりと止まった。


「やっぱり、闇の魔術を使ったね?」

 抑揚の無い声色。
 穏やかな、しかしきつめの視線が、呆気にとられた様子のシリウスの顔を射抜く。

 リーマスの言葉を笑い飛ばそうとして失敗し、結果、どう見ても繕い笑いとしかとれないような表情を浮かべる事になってしまった。

「なんで、わかんだよ? そんな事」

 首を傾げて精一杯空恍けようとしている彼だが、あちこち彷徨う目線の不審さは、如何ともし難い。

「そりゃあ、目の前で呪文使われれば、多少はね。
 闇の魔術には、詳しいんだ。これでも。自分の事みたいなものだから。
 …勿論、君とは、違った意味でだよ? シリウス・ブラック」

 絡まって出来た紐の輪に引っかかったままのシリウス指先を、逃がさないように握りこんだ。

 どこか怒気を孕んで見える、鳶色の瞳と目が合う。逸らす事を許さない強さだった。
 地図を机の上に放り出したリーマスは、空いた手で相手の握った杖の先が、自分の方に向かないよう固定した。

 そこで初めて、シリウスは甚だマズイこの体勢に気付いた。押さえ込まれている訳ではないが、正直、逃げる事は不可能に近い。
 胎を括って親友の顔を真っ直ぐ見上げ、ニイっと笑った。


「…いい出来だろう?」


 最悪な事に、開き直るつもりらしい。

「まあ、それは否定しないよ。
 …でも、さ、シリウス。こんなコトに、家系伝来の魔法なんて、使って良かったの?」

 さらりと掛けられた鎌に、聡いくせに友人達に(だけ)はこれでもかという程警戒心を抱かぬ彼は気付かない。

「いーのいーの。今使わなきゃ、いつ使うんだよ?」


「ふーん。
 君に、闇の魔術に対するタブーは無いわけ?」

 にこやかに笑う目つきは据わっていた。リーマスの言いたい事も判らなくもないが、シリウスにはシリウスの言い分がある。

「別に、これには危険な事はねーんだから、イイだろ」

「そういう問題かい?
 そんな軽い気持ちで闇の力を使って、ヴォルデモートに与すると思われたらどうするの? 君は純血主義と闇の魔術を嫌っているよね」

「軽くなんかねーよ! 地図作りは、俺たちの大事なシゴトだろ? 
 大体、俺が少ぅーし簡単な闇の魔術使ったなんて事は、お前かジェームズが言触らさない限り、バレるワケねぇって!」

「……ジェームズは、知ってたんだ」
 地図の仕上げに、闇の魔術が必要なこと。事前に、相談もしていたに違いない。

 心なしか低められた声に、シリウスが反応する。
「そうむくれんなって、リーマス。大袈裟に考え過ぎだよ、お前は」

 苦笑して、鳶色の前髪の先を引っ張った。抵抗無く引き寄せられた頭を片腕で抱え、鼻先が触れ合いそうな程間近から伝える。

「こんなのは一種の技術だからさ、特別お前に云う事もないかと思ってたんだって」

 別に、お前を蔑ろにしてたとか、そーゆーのじゃねーよ。

「いいも悪いもないじゃん? ただの技術なんだからな」


 実際、そんな技術が使えるからといって、特に何か自慢になるわけでもないし。この御時世では、闇の力は敬遠されて当然だろう。
 わざわざ触れて回るような事ではない。



「…でもさぁ」
「もーその話ヤメ。俺聞きたくないから。…それより、疲れた」

 再び両手両足を気儘に投げ出し、相変わらず頭はリーマスの膝にのせたまま大きく伸びをする。改めて意識してみると、泥のように身体が重かった。




「悪ィ。…ちょい寝る……。ジェームズってか、食いモン来たら、起こして…」
「え? ちょっと、シリウス…!」


 云うが早いか、あっと言う間薄い瞼に覆われる、一対の灰色の目。
 何だか嬉しい――を軽く通り越し腹立たしさすら感じる平和な寝顔を、容赦なく抓った。手元にペンでもあれば、落書きしてやれるのに。






「あーあ、まったく…君がそこで寝てたんじゃ、ぼくは身動きとれないじゃないか……」


 この、闇色の髪の、傍若無人で勝手気侭な親友に甘いのは、リーマスも同じなのかもしれなかった。



[[Darkness?]]]



●膝枕のままひとまずエンドマーク。
犬はちゃんと褒めてあげましょう。優しく撫でて労うと親密度が増します(笑)







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